人生は壮大なネタ作り

日頃考えていることを文章にしています。ごく稀に更新します。

資産形成とブログと日記

 資産形成をしたほうがいいということをよく言われます。が、色々調べているうちに気がついてしまったことがあります。これ、めちゃくちゃ時間がかかる。時間的コストを考えたらバイトしたほうがいいのではないでしょうか。人生、お金に変えられないものは時間です。

 

 しかも若者はもともと100万円からとかで運用しようとします。大したお金になりません。本当にバイトしたほうがいい。そんなことよりもせつやくしたほうがいいかもしれません。一ヶ月に一回コンビニを使う回数減らすとか、ペットボトルの飲み物買うの控えるとか、そっちのほうがよほど儲かる。やはりコストカットの方が世の中儲かるんです。ホリエモンが言ってたのは正しかった。

 

これからの生活は時間のほうがはるかに貴重だと思うので資産形成やめました。それを思えばこのブログ書いたり日記書いたりするのも時間かかるんですよね。

 

しかし、本で読んだことや思ったことをこうやって世界中に発信すると、それだけで定着が違うんです。特に忘れかけているときに、すぐ整理されたもので思い出せる。しかも、ぼくが生きた証拠になるわけです。もっとも、一人で楽しみたい読書もあります。なので、これからもやりたいと思います。

 

さりとて少しは時間を節約したいので色々試してみます。とりあえず、日記の手書きを辞めます。これ時間かかる、googleドライブに書いてしまおうと思います。プラスこのブログもそうなんですけど、5秒以上手を止めるの禁止。こうすると頭使うしさっさと進む。もっとも校正だけは少しやろうと思います。

ネトウヨとパヨク

ネトウヨという言葉が5年以上前にネット上に出てきてから早くも時間が進みました。このネット右翼という言葉、どうなのだろうとかねてから思ってきました。

 

基本的にこの言葉を使っている人は左派の人が多いです。(最も最近は自称しているtwitterアカウントなどもちらほら見かけます)左派の人たちにとって自分たちより保守的な考え方を持っている、ましてや安倍政権を積極的に支持している層というのは、同じような層に見え、一括にしがちです。

 

一方の言葉に「パヨク」という言葉もあります。どこから「パ」が出てきたのか本当に謎ですが、とにかく一般的に広まってしまった言葉です。右派から見ればリベラル系の界隈の人というのは皆同じように見え、一緒くたにしがちなのでこの言葉は多く使われているのを散見します。

 

この2つの言葉の定義を書く本も一時期出ました。どちらも「対話出来ない層」というのが言葉の定義だったような気がします。たしかにそんな気もします。

 

しかし、僕はこの2つの層、実はそんなに多くはないと思うのです。ネット上でネトウヨだのパヨクだの思われている人のtweetをきちんと読むとグラデーションがある。保守系の界隈の人でも政権に批判的な人はいるし、リベラルな考え方を受容できるひともいる。リベラル系の界隈でもまた然りです。

 

おそらく、保守系の界隈の人たちはあまりにイデオロギーの色が強かった戦後教育を受けてきて、その反動によるリベラルに対する不信が強まっているだけだし、逆にリベラル系の人々はどちらかというとややマッチョな議論になりがちな保守に対する不信感が元々あるだけ。

 

ただ、最近は政治家も加わってお互いを無駄に煽り合っているように思えます。だからあえて言うと「ネトウヨ」垢も「パヨク」垢もどちらもフォローしとくと相互理解が深まるのではないでしょうか。

法と勧善懲悪

僕が大学に入って最初に教わったことは、法の正義とは勧善懲悪ではない、ということでした。正義すなわちjusticeはfairという意味に近く、どちらかというと法の衡平という方が正しいということを学びました。これにはびびっときました。それはそのはずです。ぼくは大学に入る前、法学部を志望しながら、法の正義というなんか怪しい言葉に不信感を抱いていました。

 

そして法理学を学んでみると、まさに「法とはなにか」の世界なわけです。そしてなんと、この世の中に強制力を持って働いている法というものの正当性はいまだに断定できない。いよいよ面白いと思いました。その中で、法というのフィクションで、世界史の中で社会を回していくために生まれてきたものであって、その中で正当性を見つけるのが本当に難しいということを肌で感じました。

 

しかし、世の中全員がこういう考え方になったらどうなるんでしょうか。たぶんそれはそれで問題です。つまり、「なんで人を殺してはいけない」「なんで法を破ってはいけない」ということみんなが考え始めると問題ということです。多分、法律を少しでもかじったことがある多くの人は、人を殺すのが悪いことだ、という価値観ですら絶対的なものではないと感じているのではないでしょうか。その中で、世の中を回すにはとりあえず道徳と切り離して法律を運用すべきであると。実際、裁判官は死刑を宣告することは出来ても、謝罪を強要することはできません。

 

しかし、世の中一般の人は違法=悪いことだと思っているわけです。つまり、道徳と法律をつなげて考えている。道徳と法律はなんとしても切り離さなければいけないというのはケルゼンという人が言いました。

 

ただ、違法でも悪いことだとは断定できないということになると、実際の刑事実務どうにもならないんだと思います。実際に更生や反省によって司法実務が変わってくるのが実際です。この考え方突き詰めていくと、更生とはなんぞやという話になってきますもんね。

責任

 責任をとるってどういうことでしょうか。「責任取れるのか」「責任をとって辞任」「大人には責任がつきまとう」世の中にはこんな言説がはびこっています。しかし、責任ってなんなんでしょうか。だれも答えを教えてくれません。

 

 一つ解釈としてあり得るのは、その問題に関して他人からの責めを自分だけで抱えることだと思います。これは文句ないのではないでしょうか。でもそれならば、「責任をとって辞職」みたいなことにはなりません。

 

 あるいはお金の話でしょうか。それについて生じた損害を賠償すること。でもそれって別に「責任をとる」なんて宣言しなくても、賠償責任に問われるかどうかって民法に書いてある。生じた損害を衡平に分配する、大して問題になるでしょうか。

 

 一番よくわからないのは、刑事事件の責任というやつです。「責任をとる」なんて宣言するかしないかに関わらず、裁判所が刑罰を課す。そこで反省しているかどうかなんて話がでてくる。「死んで償う」なんてのはもはや理解不能です。誰かにとってプラスになるんでしょうか。

 

 人に「責任」という言葉で脅しをかけてくる連中がいますが、要注意です。わけのわからない言葉で脅してくる連中には近づかないほうがいい。と、思っています。

見えてくるまでに必要な作業

 こんにちは、今日は作業の仕方について書きたいと思います。

 

 みなさんはどのように作業や勉強の計画を立てられるんでしょうか。計画を一つ一つこなしていける方ってすごいですよね。僕できない。というより、ある程度内容がつかめてこないと計画立てられないんです。

 

 作業してて、感覚というのがあります。特に勉強だとわかりやすい。今、どれぐらいまずい状態にいるか、意外と大丈夫か。これで、深刻にまずい気がする、というときはやっぱりほんとに大変。逆に、多分これはこのへんで手を引いたほうがいい、という感覚もあります。このへんは感覚ですよね。この感覚で今までの受験乗り切ってきたような気がします。

 

 人間、頭のどこかに完璧主義みたいなのがあるような気がします。だけど、全部完璧にできるような人なんて一握り。たとえば、10時間勉強するにしても、最高に集中力が高まっているのはせいぜい1時間ぐらい。あとは、なんとなく気が散っている。だけど、最高の集中力で10時間やろうとする。あるいは、毎日10時間やろうという人がいます。強烈な受験生ならできるんでしょうけど、凡人には無理。

 

 なら、どうすれば負けないかということを考えるような気がします。しかもできうる範囲で。受験だったらそんなところで志望校の落としどころも見えてくるんではないでしょうか。単なる模試の偏差値などではなくて、こう、今の自分自身の実力の感覚と、志望校の難易度の感覚。それが可能な範囲に収まってるならやれる、みたいな感じです。

 

 作業をこなさなきゃいけない時、よく、孫子を読みます。「故によく戦うものはこれを勢いにもとめ、人にもとめず」あまり、反省のしなさすぎはいけませんが、作業がはかどらないときは自分を責めるよりも、やる順番とか方法を先に再考することです。どうせ人間は反省しても大して変わりません。そんなに強くできていない。なら、自分ができてしまいそうな環境に身を置くんです。そうすると、できそうな感覚がでてくる。感覚がでてくるものは、だいたいできます。

 

それではまた!

United States "are"

 アメリカ合衆国という国があります。北アメリカ大陸東海岸13州が英国から独立することによって成立しました。一時は内戦も経験しましたが、20世紀初頭から急速な膨張を遂げ、第一次世界大戦後に世界一の大国となり、第二次大戦後には超大国となりました。

 

 この国には建国当初から反ヨーロッパ的な感覚があります。そりゃあそうです。そうじゃなきゃ独立しない。その中で、「自由」という価値観を最上位においた国家を形成してきました。ヨーロッパや日本に置いてあれだけ社会主義が流行った時代に置いても、自由という価値観だけは堅持した。それだけ大切な価値観なわけです。

 

 ”The federalist papers”という文章があります。英語版は無料で読めますし、日本語版は岩波文庫で読めます。これは、合衆国憲法制定の必要性を、合衆国建国の父たちが切実に訴えたものです。議院内閣制と並んで代表的な民主体制になった大統領制が、なぜ議院内閣制の本家本元たるイギリス植民地から誕生したのか、感じられる文章です。

 

 

 通底する価値観は自由です。しかも、各州の自治の権限は強力に残す。あくまでアメリカというのは、国があって州があるのではなく、州があって国があるのです。"The United States"に付属するbe動詞は、南北戦争集結まで複数形だったといいます。そのあたりにこの国の本質があります。

 

 近頃の世界のことを言うと、ヨーロッパが環境問題にうつつを抜かしている間にシリコンバレーはどんどん興隆し、中国は巨大国家になりました。まだまだアメリカには、他国と競争していく力があります。その土台となっているのは、何があっても揺らがない、「自由」の考え方です。一本筋の入った国は強い。少し日本も見習ったほうがいいかもしれません。

時代の体感速度

 以前、ネットサーフィンしていた時、「僕らの親世代が子供のときは洗濯機やテレビが家にやってきた、それに引き換え、現代は携帯電話がスマホ担った程度じゃないか」という記事を散見しました。時代変化のスピードに対する感覚に衝撃を受けましたが、意外とこういった感覚をお持ちの方は高齢の方にいらっしゃるのかもしれません。

 

 たとえば、前に書きましたが、僕はテレビを家に所有していません。インターネットしかない。しかしそれで全く不便しないし、むしろ不要なものがなくていい。だけど普段テレビしか見ない層というのはやはりこの世にいます。

 

 先日、モバイルSuicaがテレビで紹介され、これに対するアクセスが集中したというのをTwitterで散見しました。モバイルSuicaってガラケー時代からあるサービスだし、使ってないはともかく知らない人がこんなに(suica圏内で)存在していることに驚愕しました。でもたしかに、たまに実家に帰って見るテレビは昔となんら変わっていないし、あの世界だけ見ていると大して変わってないのかもしれません。

 

 いかに5Gだ、IoTだ、深層学習だ、といってもこれって意識しないと見えないものなんですよね。ソフトの領域でどれだけの変化が起こっていても、それがハードの領域に出てこない限り、人間って変化しないのかもしれません。だからこそ、これからハードの領域まで第4次産業革命が浸透していくインパクトというのは大きいと思います。

 

それではまた!